【自伝】大学三年生になってから急に勉強をし始めた彼
これまでの彼の生活と言えば、
それはもう堕落に負けた獣であった。
勉強や将来という努力を伴う不安ごとから極力逃げて、
毎日ゲームに勤しんだ。
イベントが来ればそれは最初の3日ほどで走り抜けるし、多くのクエスト周回が必要なコンテンツに関しては、ほとんど常時、周回していた。
食事に関しては食べたいときに食べて、
一日三食という固定観念はとっくに消えた。
睡眠も同じように寝たいときに寝ていて、
だいたい徹夜明け朝7時頃が睡魔のピークなので、そのあたりに寝た。
目が覚めたら起きて、またクエストの周回である。
幸い彼に恋人はおらず、人目を気にしてスキンケアなどに時間を割く必要はなかったし、
デートなどの予定もないので文字通りずっと周回に時間を割くことができた。
「幸い」というのは決して強がっているのではなく、当時のことを考えたら恋人ができたとて傷つけてしまう可能性もあり、その意味での幸いである。
大学に通学するタイプのニートとも言えるこの生活は、一人暮らしだからこそできた所業であるかもしれない。今となってはいい経験だが。
そんな様子で大学生の折り返しを迎えた大学二年生 - 三年生間の春休みのことである。
彼は突然、自分がすでに大学生活の半分を終えてしまったことに焦りを覚えた。
入学当初はあれほど「有益な大学生活にしよう」「卒業式ではこれまでに体感したことのない程の達成感を味わおう」なんて意気込んでいたのに。
当時の少年は堕落ゲーマーとなっていた。
そんな焦燥系堕落ゲーマー大学生の、しばらく電力供給が止まっていたやる気スイッチ、いいや、やる気ブレーカーがこの焦燥感を電気代に電気供給契約を交わした。
つまり、勉強を始める決心が付いたのである。
本当はここまでの間に多くの葛藤があったが、それも今考えれば結局「やらない言い訳」として並べていただけであった。
この「やらな言い訳」というのは非常に人間味のある面白いものだと最近気が付いて、これは後日、明日にでも、ブログの題材にしてみようと思う。
結局、なぜか急に強く感じた焦燥感から勉強を決心した彼は、
まず読書週間から始めた。
そしてちょうどその時、彼の好きな心理学の検定開催のお知らせも届き、それも受けてみようと決心。
そこからはいわゆる「意識高い系大学生の生活」のようで、
早朝に起き、バターコーヒーを飲みながら読書をして、勉強をして学校に行き、帰ったらまた勉強。そこにはすっかりゲームはいなかった。
しかしインスタグラムなどで意識の高い投稿をしたことはなく、ただ自分のために意識高く生活をしていたという点では、意識高い「系」ではないのかもしれない。
もうお気づきであろうが、彼とは私のことである。
堕落から焦燥感というロープをよじ登って這い上がったのは、紛れもなく私である。
最後に、勉強に本気になって思ったことがある。
勉強とは非常に楽しいものだ。
かつては勉強は大嫌いであったが、
それは勉強の一部分しか見えていなかっただけで、
本質を見ようとはしていなかった頃の話だ。
まだまだ書きたいことはあるが、今はここまでしか明確に言語化できない。
いずれまた、今度は自分なりの勉強法と書いてみようと思う。
では今日も、勉強を始めるとしましょうか。
【日常】最近気に入った詩を紹介しますね
僕はなんでも思ひ出します
僕はなんでも思ひ出します
でも、わけて思ひ出すことは
わけても思ひ出すことは……
――いいえ、もうもう云へません
決して、それは、云はないでせう
この詩を耳にしたことはあるだろうか。
これは中原中也さんの「別離」という詩の一節である。
つい最近、朝ドラの「ちむどんどん」にて紹介されたものなので、もしかすると聞き覚えのある人は多いかもしれない。
私もその朝ドラで知り、そして私はこの詩に感動した。
今日の話題は、この詩の素晴らしさをただ語るだけのものである。
前提として、私は普段から詩に触れているかと問われればそうではなく、
稀の気が向いたときに嗜む程度である。
だので、専門的な知識はおろか詩の評論界隈でのあたりまえすらも知らないため、有識者からしてみれば心地の悪いものになっていしまうかもしれない。
その点はご了承願いたい。
では、そろそろ語るとしよう。
まずは、「思ひ出します」という言い方、
敬語での表現である。
私が触れたことのある詩がたまたまそうであっただけなのかもしれないが、
少なくとも私は詩というものに対して敬語を使うというイメージがなく、
その点で新鮮さを感じたとともに、
これまでの詩に対する固定観念との間に矛盾を感じた。
実は私はこのような自己の固定観念、また信念との矛盾を感じることが好きで、
これまでの自身の中のあたりまえがゆっくりと崩れていく様を感じて快楽を得ているのである。
まあ、こういう書き方をするとまるで変態のようだが。
それとまた、昔ならではの「思ひ」や「云はないでせう」といった表現は、
この詩の歴史を感じることができるので味がある。
しかし味のある詩は他にもいくらでもあるわけで、
なぜこの詩なのか。
そこには先述した「敬語」と「昔ながらの言葉遣い」
と言った二者間の主観的矛盾にある。
また、少し客観的な観点に寄せて考察してみると、
現代を生きる我々にとってこの詩の言いまわしは独特で、いびつで、どこか不気味さを感じないだろうか。
この詩は「ちむどんどん」にて朗読という形で紹介されたが、
私はその朗読を聞いていて、
上のような独特さ、いびつさ、不気味さを感じた。
これこそが私の感じたこの詩の素晴らしさの本質である。
最後に、私はこれをきっかけに詩にハマりそうである。
普段は小説の中の純文学というものが好きだが、
詩にはこれと似たようなところがある。
たとえば、その作者自身の言葉で書かれた独自性。
または、その文章たちの自由性。
ストーリー性を意識して作者を楽しませる目的の大衆文学とは異なり、
純文学や詩は言ってしまえば自己満足的な側面がある。
しかしこの自己満足的な要素がそれぞれの味を出し、
そして私はそれらの味が好きなのである。
【考察】テレビのアイデンティティ危機
私は普段、テレビを見ない。
見るとすればそれは平日朝8時、朝ドラの時間である。
近年の一人暮らし世代は正直、こんなもんだと思う。
しかしこれまで、つまり中高生の頃はどうであったかというと、
起床して二階から一階に降りると、必ずテレビが付いていた。
そして時間は飛んで学校から下校した後、
そこでも、必ず夕方のニュースなどが流れていた。
これはもう習慣化していて、当時はそれに対して特に何も思わなかった。
何となくやっている番組を見て、いいや聞き流して、
言ってしまえば惰性であった。
しかし一人暮らしを始めたことによりそのような習慣とは距離を置くことになる。
最初こそ習慣の名残で昼間のニュースを見ることはあったが、
ゴールデンタイムの番組は見ないし、次第にニュースさえも見なくなった。
だから、流行りの芸人や俳優も知らないし、無駄なニュースも入ってこない。
流行りに関しては、私は社会や世間の流行りの価値より自分の個人的な流行りの方が何千倍もの価値があるという考え方なので、知らなくて困ることはない。
無駄なニュースに関しては、これはニュースから半年近く距離を置いて気が付いたことだが、
本当に、どうでもいいニュースが多い。
かといってニュースに対する批判を並べたいわけではないということは気に留めておいてほしい。
けれどやっぱりどうしても、知らない街の知らない事件や、芸能人の離婚がどう、トラブルがどうとか。あとは結婚した、妊娠したなど。
私自身のあまり他人に関心を持ちたくないという性格によってさらなるバイアスがかかっていることも確かだが、これを知って何になるのだろうか。
例えば「スポーツ選手がこんな偉業を成し遂げた」というニュースがあるとして、それに価値はあるのだろうか。
確かに選手自身の承認欲求やその親族が誇りをもてる面では良いし、人生の教訓として受け取ることができれば有益である。しかし、教訓は日常的に得られるものではないことも確かだろう。
この感情を実際に文字にしてみて思ったが、
テレビに有益さを求めるのは違うのかもしれない。
確かに学べる番組はあるが、特に意味のない惰性ニュース、惰性番組があってもよい。
この点でYouTueが優勢に立っていそうだが、テレビならではのこともある。
若年層のテレビ離れが進行している。
テレビの形は変わるだろうか。
いずれ1家庭に1テレビではなく、1家庭に1ディスプレイの時代が来るだろう。
というかもう来てる。
ここまで考えてきてなんだが、私は楽しめればどっちでもいい
【日常】実家帰省記(初日の朝)
驚いた。
まさか実家がこれほどに快適で、
これほどに贅沢な環境であったとは。
ここひと月は金欠、大量のレポート課題、テスト、孤独などなど多くの問題が同時に押し寄せてきたから、反うつ状態でもあった。
それらを乗り越えて昨日、ようやく帰省した。
到着は夕方で、そのまま昨日はゆっくりと土産話を聞かせたり、聞いたりして過ごした。
そして翌朝の今日である。
もしかしたらこれは「初日の朝」ではなく「二日目の朝」かもしれないが、昨日は夕方からしかいなかったということでご勘弁を。
昨日から驚きの連続だが、特に今朝からのことを書こうと思う。
朝は豊かな鳥のさえずりが出迎えてくれる。
私の地元は長野県であり、自然が豊富だ。
家の二階で寝ていたが、一階の生活スペースに降りると母親が朝食を作っていた。
これまで食費の関係で一日一食、五袋300円程度の袋麺を一つ食べていたこともあるくらいに困窮していた。
両親や祖父母に救援物資を要請することもできたが、どうせすぐに帰るからと遠慮がちであった。
そんな不健康で小食な青年の前に今、バランスの取れた一日三食という贅沢な幻想が現実化して現れた。
しばらくすると父親も、妹も起きてきて、
夢にまで見た平和な生活に、このブログで綴らずにはいられなかった。
私は今、毎朝連続テレビ小説、いわゆる朝ドラを見るのが日課になっている。
確かに一人暮らしの家でゆったりと見ることも幸福だが、
正直な話、実家で見る朝ドラの幸福度の足元にも及ばない。
今、着実に、そして明らかに生を実感し、幸せを体感している。
これから約一か月半、この楽土での生活が許されている。
帰った時のことを考えると今でも恐怖を覚えるが、
今はそんなことどうでもいい。
ただ今に焦点を当てて、
今を生きて、
今ここにある幸せを抱いて
私は今日も生きていく。
精神状態は良好で、これからまた毎日のブログ更新を頑張ってみようと思う。
前にも書いたかもしれないが、私はこれを自分の感情と向き合う機会として捉えている。
だから精神的に余裕のなかった時に続けることができなかったのだが。
今日この日の感情を大切にしたい。
先ほどから「今を生きる」という意味合いの言葉を多用しているが、
これは最近この生き方の重要性に気が付いたからかもしれない。
過去の失敗という事実は曲げられず、未来への不安はきっと生きていくうえで生涯つきまとうのだと思う。
だったら過去の失敗を今の糧として、
将来の不安は重く考えず今に焦点を当てて生きた方が楽しそうではないか。
千里の道も一歩よりと言うが、この考え方にも通ずるところがある。
今はこれからどんな日々が、そしてどんな今日が待っているのかを考えると
でぇじちむどんどんする。
【日常】続けることができないあなたへ
続けることができないあなたへ
各夕わたしも、そうである。
まさにこのブログの更新、気分がすぐれないと、
すぐに「また明日」と先延ばしにしてしまう。
そこで、私は考えた。
続けられない私たちに本当に必要なのは、
「這い上がる力」なのではないかと。
何か継続したいことがあって、それができないときはどうするだろうか。
大抵、「継続の方法」を探すのではないだろうか。
それよりも、一度継続ができなかった自分を認めて、そこから這い上がっていけばよいではないか。
多くの人々が継続の難しさに悩んでいることからもわかるように、
これはあなた個人がどうとかではなく、人間普遍的に苦手なのではないだろうか。
それにどこか「継続ができない=無能」とも言うような認識が蔓延っているように感じる。
要するにこの認識は誤りであり、失敗したら這い上がる。それだけでよい。
例えば家計簿をつけようと決心して、それが3日で終わってしまった。
これに対して「継続の失敗」だと捉えれば自己肯定感という面でもよくない。
さらに言えば、これを機に家計簿をきっぱり諦めてしまえば楽なものを、
数週間後にまた結局試みる。
三日坊主が頻発するようなら、確かに継続の方法を見直すべきだが、
それよりも、どうせまたやるのなら、すぐに這い上がって実質的な継続をしてしまえばいいのではないだろうか。
まだ具体例によって噛み砕き、明確に考えが伝わるようにしたいが
今日は気分じゃないのでこの辺で。
【日常】気持ちの良い晴れ間
窓の上部にはきれいな青色が描かれている。
窓の下部にはきれいな緑色が描かれている。
これらを見るのはもう数十回目目になるが、今日の日差しを浴びるのは今日が初めてであって、毎度新鮮な心持である。
私はこれを眺めながら、「この後の時間はどう過ごそうか」とぼんやり考えるのが好きだ。
考えるといっても答えを導き出すためのものではなく、なんとなく脳の寂しさを埋めるための、いわば嗜好としての思考だ。
更にここに、体を伸ばして大きく欠伸をするというオプションを加えればもう、
それはたちまちヘブンズ・ゲートと姿を変える。
私の大学は今ちょうど遅めのテスト期間、レポート提出期間に入り、今週はプレゼンテーションも控えている。
さらに言うと別で数件、仕事の案件も抱えており、
正直なところ最高に多忙な時期である。
このように考えなければならないことや、やらなければならないことが今はたくさんあるが、この清々しい天気を前にしては彼らは無力で、
作業がはかどり自己肯定感も上がっていく。
最近は天気によってその日のパフォーマンスが変化するこの性格を変えてみようかと試みたが、やっぱり私は何だかんだこの性格が嫌いではなく、中止した。
生きている中であと何回、この清々しい晴れ間に出合えるだろうか。
あまりこの世には未練を残さないように生きているし、
スティーブ・ジョブズではないが「今日が人生最後の日だったら」
と考えることもある。
悔いなく人生を終えたいものだが、
どうしてももう少し晴れた日を感じたい欲求は生涯つきまとうような気がする。
だったらせめて、晴れた気持ちのいい日に、少し昼寝をするように永い眠りにつこう。
まだ学生のうちに老後の死を考えるのはあまりに気が早いような気がするが、
一つの人生の目標としては悪くない。
話は変わるが、晴れ間でたそがれるという行為は明らかに今を生きているわけで、だから私は幸せを感じるのではないかと思う。
一応今日この後の予定は考えているが、それは先ほども言った通り実質的にほぼ考えていないに等しい。
何よりこの時間は晴れ間を見てぼんやりとする「いま」に着目している。
「今を生きている」という感覚が幸せに誘うのかもしれない。
しかしできることならば、地元でこれを見たかった。
今は一人暮らしで東京で眺めているわけだが、
地元で見るこれは格別だ。
私の地元は長野県であるから、何しろまずは空気がうまい。
それに四方を囲む山は穏やかな包容力があり、
囲まれて眠りたくなってくる。
最近はなんでもそうだ。
結局何かを考えるとその終着駅には長野があって、
とにかく帰りたがっている。
そう、私は故郷に帰りたい。
【自伝】ちなみに読書の有無と幸福度の関係はガチ
皆さんは普段、本を読むだろうか。
このブログはどちらかと言えばSNSというより小説調な語り口なので、もしかしたら普段より読書が好きな人々が集まるのかもしれない。
ちなみに、私の体験で言えば、
読書の有無と幸福度に関係はガチである。
こう考えた経緯を詳しく説明していこう。
まず、私は普段から本は読む方で、だいたい朝、電車、寝る前などに読むことが多い。
かなりの読書家というわけではないが、自称読書家程度には好きである。
面白い本に出会ってそれを読んでいるときの、知的好奇心が心からふつふつと湧き上がるあの感覚が好きだ。伝わるだろうか。
何とも言えない充足感だ。
であるわけで、このように私は一人の読書ファンだ。
しかし、つい最近少し精神的に疲れてしまった頃、
読書をすることもやめてしまった。
その結果であるが、なんとなく毎日の色合いが薄れたような感覚に陥った。
これは私だけかもしれないが、先ほども言った読書による充足感を感じると「自分はこれでいいのだ」といった自己肯定感、自己受容にもつながる感覚が想起される。
「自分はこれでいい」「今日もいい日だ」と思えるわけだが、これはどうも私には、読書なしにはなかなか感じることができないらしい。
今日伝えたいのはただ、読書は素晴らしいということである。
今の日常にもう一つスパイスが欲しいと思ったら、ぜひ読書をしてみてほしい。
私は普段から友人にもしつこくない程度の読書布教をしているが、
そこで多く聞くのは、
「本って途中で飽きちゃうからなあ。」
という定型文である。
普段は「そっか、おすすめなんだけど。」とこれ以上布教したい気持ちを必死に抑えてあくまで提案の域を出ないような配慮をしているが、
もはやこのブログでそんなことは無用だろう。
そこそこの冊数は読んできていると自負しているが、私だって途中で飽きる。
飽きたらその本は「今の自分には必要のない情報だった」と割り切って本のタイトルだけ頭の片隅に置いておく。
また必要になったときに読めばいいではないか。
飽きたらさっさと次の本へ行ってもいい。
また、「何を読めばいいかわからない。」という声もある。
これに関しては、究極なんでもいい。
もし読書に対して現状苦手意識が強いのなら、まずは「はらぺこあおむし」を読破することから始めようではないか。
しっかりとした小説やビジネス書に苦手意識の強いまま挑戦しても、
難しい→続かない→やっぱり読書は苦手
余計に苦手意識を強めてしまうかもしれない。
しっかりと布教できたかはわからないが、読書をすることによって私は明らかに幸福を保っている。
挑戦してみる価値はあるだろう。と思う。
これを機に、簡単な漫画や絵本でも、一冊購入してみるのはいかがだろうか。
余談だが、Amazon Primeに加入している方はKindleのPrime Readingというものを使ってみることを強くお勧めしたい。便利極まりない。