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「日常は小説よりも奇なり」

【報告】しばらく音沙汰しておりました

しばらく、音沙汰しておりました。

 

言い訳は私の、いいや人間の特技とも言えるので、

今もどれを書こうか無意識の提案が続きます。

 

しかしあえて今回はその提案をはねのけて、

かっこつけずに自分と向き合います。

 

それがこのブログの趣旨の一つでもありますので。

 

 

 

 

まず初めに、私は怠惰でした。

 

確かに現在は絶賛テスト期間で、絶賛金欠で心の平穏を保ちにくく、絶賛ゲームを通して現実から離れたいような欲求が強くあります。

 

しかし結局のところそれは言い訳に過ぎず、過剰な「書かなければいけない」という義務感から逃げるために字を打つその手をを重くしました。

 

ここで言いたいのはそんな自分を律して今日から頑張りますということではなくて、

というのも私はこの方法で何度も再度挫折を繰り返しているので、

今回は少し工夫をしてみる。

 

 

 

 

自分の中にこのブログのテーマはいくつかあるが、その一つに「1000文字を、1000日」というものがある。

 

これに義務感を感じすぎてしまっている気がしたので、この認識を少しいじる。

 

 

当初は1000日連続で達成するというビジョンを持っていたが、正直現実的に不可能な日もある。

 

 

たとえば、早朝から深夜までの日帰り旅行の日など。

 

あまし旅先にノートパソコンの類は持ち込みたくないし、旅行の日はなるべくそのことだけを考え地域に没頭したいタイプであるからして、

 

そんな日に1000文字は負担が大きい。

 

 

 

 

なので、この「1000文字を、1000日」という目標をかなりの長期的な目標にすることにする。

 

忙しかったり、気が乗らなかったり、そんな日に続けてもモチベ―小の低下を招くだけだ。

 

そんな日は10文字でもいい。

ただ、継続する。

 

 

 

こうしてこの先続けてみようと思う。

 

義務感に対してかなりの嫌悪感のある私なので、そのハードルを極力下げる作戦だ。

 

 

 

 

そろそろ書いていた短編の小説も、けじめをつけたい。

 

しかし焦らず、ゆっくりやる。

趣味にせかされているようでは、精神が過労死してしまいそうになる。

 

 

 

 

人間はどうしても怠惰な側面があるし、考え方も変わる。

ましてや多感な思春期・青年期とあらばひと月別人のような価値観になることもおかしいことではない。

 

それならば日々、アップデートしていけばよい。

目標を変えることはそれほど悪いことではない。

 

 

 

しかしここ最近少し執筆をお休みしたことで、地道な継続の大切さを知ったという利点もあった。

 

毎日継続が正義という一般イメージがあるようだが、たまの休みも悪くない。

 

 

 

あしたは、何を書こうか。

【考察】定期的精神的不安定性

私は定期的に、精神状態が著しく低下する時期が来る。

 

毎日の更新が途絶えたのもそのためであるが、

 

人に言わせればこれはおそらく「病んでいる」状態と言えるだろう。

 

 

 

小学生の頃から定期的に落ち込む時期というのはたしかにあった。

 

が、大学に進学し一人暮らしを始めてから、それが重症化したようだ。

 

 

 

小学校時代は気分は落ち込むことはあれど学校には通えていたし、何より帰れば家族がいて、一緒に笑えば楽だった。

 

これが起こる頻度も、正確に覚えているわけではないがそこまで多く無かった印象だ。

 

 

これが一人暮らしを始めて、頻度の面でも重症度の面でも1ランク上に上がったような感覚である。

 

頻度は、年に平均4,5回ほど。

6月後半から7月にかけては今のところ毎年皆勤賞だ。

 

具体的にどのような状態になるか、将来の自分がこのブログを音連れた時のためにも、

なるべく具体的に書いてみようと思う。

 

まずこの状態に陥る直前の特徴は、かなり充実した生活を送ってることが多い。

今回も、早起きしたり、読書をしたり、朝ドラを楽しみにしたり、

友人に言えば、

「いつの間に精神年齢の還暦を超えたのか」

と突っ込みがありそうな、実際少しあったが、

それでも私はこういう生き方が好きで、幸せであった。

 

このブログの執筆を開始したのも、ちょうどその時期にあたる。

 

しかし暫くして、現実はそれの障壁として立ち塞がっていることを知る。

 

具体的に言えば、

 

「今日は落ち着いて過ごしたいのに学校がある」

「家族に会いたいが、会えない」(家族は長野で、私は東京である)

「送りたい生活を送るためのお金がない」(これは最近アルバイト学生からフリーランス学生に方向を変えたことが大きく、メンタルヘルスの立場では快適この上ない一方で収入面での不安定性が大きい)

 

最後のものについてもう少し説明すると、決して私は毎日外食であったり、浪費家としての人生に憧れているわけではない。

 

強いて言えば毎月一万円ほどを書籍の購入に回したいが、

決して欲張っているわけではない。

現在は生活が厳しい状況で、特に食の面での最低限の充実が欲しい一方で、それができていないという意味である。

 

一日一食は食べたいが、それも危うくなってしまっていた時期も最近だ。

ましてや「栄養に気を使った食生活」は送れるはずもなく、栄養失調との戦いである。

 

しかし今月末、実家に帰ればすべてが解決する。

こういうときばかりは、自分をいたわってやろうと思う。

 

話は少し逸れたが、こうした障壁のある現実と理想の生活のギャップが、定期的精神的不安定性のラスボスであると言えよう。

 

ギャップにやられるのは、おそらくまだ捨てきれていない完璧主義の人格が影響していると考察できる。

 

いずれにせよ、残り約20日で私は帰郷し、

すべてが解決する。

幸福の象徴たる理想郷に身を置くことができる。

【哲学】まよなかの懐疑

初めに、流れに沿えば次は「娯楽放浪者的帰属(3)」だが、今日は小説な気分ではないので少し寄り道をすることにする。ご了承願いたい。

 

また、ここ数日体調を崩して更新が途絶えてしまった。

楽しみにしてくださっていた方がもしいたら、申し訳ない。

 

 

 

皆さんは、夜、一人、なんだが全て捨てたくなってしまうことはないだろうか。

 

私はよくある。だから夜は嫌いだ。

 

特に今、私は一人暮らしであるから、余計に深夜の孤独感が引き立つ。

 

 

また、これは個人的な偏見にも近いような感想だが、

田舎<郊外<都心の順に深夜に感じる孤独感は大きいのではないだろうか。

 

私は田舎出身で現在は東京で一人暮らしをしているが、こちらの人々の住民間での心的距離が遠くて驚いた。

 

今の下宿先には住んでもう2年になるが、隣の部屋の青年の名前すら知らない。

田舎ではありえないことだが、そんなものなのだろうか。

 

 

というように、都心の方が孤独感を感じやすいのではないかと考えた。

 

 

 

 

とはいえ、あの深夜独特の感情はいったい何なのだろう。

 

何とも言語化が難しいものである。

 

 

現代においてこの感情と、いわゆる「エモい」感情を万人が理解できるよう言語化できる人がいたのなら、その人は間違いなく令和の夏目や太宰といえよう。

 

万人の理解が得られるかはわからないが、私もいずれこの2つの感情に関しての執筆をしてみたい。

 

冒頭に「全てを捨てたくなってしまう」と書いたが、

実際に行動に起こす勇気は決まって毎度、ないのである。

 

時には自死を選んできれいさっぱりなくなりたいような感覚にも襲われるが、

かといってこの世に別れを告げるにはまだ早い気がする。

 

もしかしたらこうした思考と行動との間に生ずる矛盾こそが、まよなかの苦しみの本質なのかもしれない。

 

 

また、夜には疑い深くなる。

恋愛がよい例だ。

意中の異性とデートを終えた日の夜、遅くまで起きていると突然

 

「あの時のこの言葉はどういう意味だったのか」

「この行動をしたということは私のことはさほど重要に思っていないのか」

「もっとこういう言い回しができたのではないか」

 

などと人間不信、自己嫌悪のダブルパンチに打ちひしがれる、

全くもって自分勝手な感情である。

 

この感情の正体と対処法を知りたいが、知ってしまったらそれはそれで不安定さがなくなり、結果人生における面白みに欠けてしまうような気がして知ろうとはしない。

 

これもまた、思考と行動との間に生ずる矛盾である。

 

 

 

終わりに、近頃は暑いので、皆さんも熱中症には十分に注意してほしい。

エアコンは惜しんではならない。

エアコンの節約で結果熱中症になり、医療費がかさむ方が危険だ。

さらに、皆さんの命の価値はたった数ヶ月の高い光熱費よりは絶対に高いはずだ。

【小説】娯楽放浪者的帰属(2)

日をまたぎ、午前二時。

 

明日は履修登録の都合上授業のない、いわゆる全休であって、

私が天国と愛称をつけ可愛がっている曜日である。

 

前回の天国から一週間、結局私は怠惰であった。

 

平日は授業を無難にこなし、残るはゲームにあてる。

休日は遅くまで夢うつつを彷徨い、残るはゲームにあてる。

 

 

 

ふと、娯楽を娯楽程度にうまく制御できていた少年の頃を思い出した。

 

当時は決して怠惰な学歴不振児ではなく、国語も、算数も、九割がたは理解できていたし、点数も相応だった。

 

ゲームは一時間と禁止されていたが、それでもその中でどう効率的に進められようか、

授業中のノートに向かい作戦会議を申し立てる日々であった。

 

少し度が過ぎる前兆はあれど、それは完全に娯楽としての付き合いであったし、

制御が効かず従属する未来など見えていなかった。

 

 

 

ここまで来て、私には一人の幼馴染が見えていた。

保育園からの付き合いで、名は新谷美咲。

 

新谷とは目が合った際の少量の興奮はあれど、

ずっと友人としての付き合いであったし、

まさか家族間で縁談が固まるだなんて思っていなかった。

 

お互いまだ大学生であるから、

卒業後に籍を入れると両親。

焦りすぎだ。結婚ができないと徴兵にでも駆り出されるとお思いか。

 

 

 

縁談はともかく、ゲームにはもうすでに尻に敷かれてしまった。

 

新谷にも、と考えかけて自制。

彼女は気が強いから、と想像しかけて自省。

 

 

 

そういえば、嫁(仮)の二つ上の兄は現在はエリートビジネスマンとして働いているらしいが、

 

どうやら数年前は新卒の勤め先に精神を蝕まれた挙句ゲームにその生涯を捧げようとしていたそうではないか。

 

今は全くゲームはしていないという。

 

そんなに人間変わるだろうか。

 

 

 

 

時間は午前三時を回ったが、一度気になるとどうしようもない。

 

「お久しぶりです。美琴お義兄さん。少し相談があるのですが。」

 

全く女の子のような名前の彼は、生粋の高身長濃い顔だ。

「これで背が低く、犬のようにかわいがられるような男であれば女性関係で在庫不足を起こす必要はないであろうに。」

少しの同情を覚えた。危うく送信しそうになり慌てて削除する。

もはや無意識だが、私は自身の顔に一定の自信があり、それからの発言だ。

 

このメッセージ通知で目が覚めてしまわないよう、願いながら送る。

 

少しの期待に乗じて十分ほど返信を待ってみるが、やはり来ない。

実際明日、いいや日付が変わり今日、私は全休であるが世間一般は単なる平日である。

 

 

 

漠然とした不安と焦燥が依然枕に染み付いたベッドの上で、

 

メッセージの送信をゲーム依存からの脱却の第一歩だと認識した脳内報酬系ドーパミンを供給。

 

小さな満足感にすっかり酩酊した私は、このまま明日を迎えた。

 

やがて鳴る携帯の通知音には気が付かなかった。

 

 

「娯楽放浪者的帰属(3)」へ続く・・・

【小説】娯楽放浪者的帰属(1)

私はもうずっと、ゲームが中心の人生を送っている。

 

 

 

確か今年で5年だろうか。

長い長い人生基準で考えればせいぜい5年だが、

私の年齢を考えればそれは割合的にかなり高いし、

それに、ゲームの優先順位を最大化した生活が身に染みるには十分な期間である。

 

いわゆる、ソシャゲだ。スマホ一つでどこでもゲームができる。

「便利な時代になったものだ。」

と、小学生の頃学校から帰るや否や備え付けのゲーム機で遊んでいた少年の口から思わずこぼれた。

 

 

 

ただ、課金はしていない。

お金をかけるほどソシャゲには価値がない。

私はもっと生産的なものにお金をかけたい。

 

「課金しないの?」

と度々友人に訪ねられるが、その際は

「結局データじゃん?消えたらそれで終わり。そんな自己満に金かけてらんないよ。」

といった定型句が出てくるものだ。

 

 

 

もっとも、この時の私はばかで、これを尋ねられた学校の帰りにコンビニに寄り新作スイーツを買うのだ。

コンビニスイーツは食べたらそれで終わり。そんな自己満である。

 

また、生産的なものにお金を使いたいくせにそれが何なのか、いまいちよく分からない。

 

更にこれが最も重大なことであるが、お金をかけるほどの価値を見出していないソシャゲに私は見当もつかないほどの時間を費やしてきた。

 

当時から時々、「こんなことに時間使ってていいのかよ」と不安になることはあったが、それもそこまで重要視したわけではない。

 

「今が楽しくて何が悪い。」と開き直っていた。

 

 

 

と、まあこんなふうに私の自己分析ないし自省は完璧である。

 

 

 

では今はどんな暮らしぶりをしているだろうか。

どんな生産的ルーティーンをこなしているだろうか。

ご紹介しよう。

 

 

 

朝起きて、お手洗いへ。

顔を洗い、歯を磨き、

冷蔵庫へ手を伸ばす。私はその時に手を撫でる冷気が好きだ。

取り出したのは飲みかけのエナジードリンク

そしてテレビをつける。そこに映るのは爽やかな朝番組のキャスター陣ではない。

ゲームのローディング画面。

正確に言えばテレビではなく、ディスプレイか。

そうして昼までゲームをして、

正午の時報カップラーメン完成の合図だ。

今日も麵をすすりながらゲームで課されたタスクを一流ビジネスマンのようにテキパキとこなす。

気が付くと外が色づき、少し肌寒さを感じる。

これが今日の授業開始合図である。

今日の授業は全部で3つ、すべてオンラインで、オンデマンド型。

なんとなく動画を見て、レポートを書いて、もう外は真っ暗である。

大学生とはいい御身分であるなと自己陶酔しつつ、

先ほどやりきれなかったタスクに集中する。

この後はただ腹がすいたら何か探し求めて満たし、

眠くなったら寝るのである。

 

 

 

「はあ。」

 

溜息も無理はない。いくら自分のことが分析できて、自省していようとも、

結局ゲームをしているのである。

 

そんな自分が、嫌になる。

 

 

 

「娯楽放浪者的帰属(2)」へ続く・・・

【考察】鬱り替わり

憂鬱という書く者すら憂鬱にさせる不思議な言葉。

 

 

 

いったい何なのだろう。

 

定期的に心を蝕んでは、また嵐の如く去っていく。

 

それはまるでロマンティックな恋愛のようで、または単に堕落のようで、

適切な距離を保つのはいつだって難しい。

 

だって気が付いた時にはもう、心の中に潜んで蝕み終えているのだから。

 

 

 

では私たちが考えるべきは、

「どうしたら入り込む余地を減らせるか」と、

「どうしたら受けるダメージを抑えられるか」

である。

 

対処法から見れば、自然災害の一つのようでもある。

 

正直な話、これの答えは分からない。

絶賛捜索中である。

 

強いて言えば、私はこれまで「限界までゲームに入り浸る」という戦略でコーピングを試みていた。

しかし、最近はゲームが一時間も続かない。

 

理由は分かっている。

「このゲームを極めても知らない人には凄さは伝わらない。しかも、データはいつか消える。」という事実に気が付いてしまった。

 

これに気が付いてから本能的にゲームを拒絶しているかのように、私の体は「ゲームをしている自分」に対して嫌悪感を示す。

 

その嫌悪感に対して今度はそんな自分に嫌悪感を抱く。

全く負のジレンマだ。

 

一番やった日は23時間、同じクエストを周回したこともある。

ロボットさながら、いいやそれ以上、現代のAI技術では到底太刀打ちできまい。

これは自己陶酔だが。

 

ゲームをしたいと思う時間はある。

しかし、その感情が少し引き波の如く、それに対する嫌悪感が押し寄せる。

 

いったいこれからどうしていこうか。

 

他にも読書、勉強などはあるがなんだかいまいちである。

私は深夜中、ゲームがしていたいのだ。

 

 

 

少し話がずれてしまった。

 

タイトルは「鬱り替わり」である。

 

先ほども言ったように、鬱とはある日の恋のような、即効性のある劇薬だ。

 

その時の感情は、現代最新科学をもってしても解明できないであろう程目まぐるしい変化を短時間の間に経験する。

 

次々と感情が移り変わる。

ある時は恋しく、またある時は憎く、それでいて無関心だ。

 

 

 

それでは果たして、私たちはこの呪縛から逃れる指南書を持ち合わせているだろうか。

 

残念ながら持っていない。と思う。

私はまだ20代で、世界を語るにはあまりにも若すぎる。

なので私の育った道にたまたまそれが無かっただけかもしれない。

 

しかし、それがあったら自殺者人口はもっと少ないはずである。

 

 

 

いつか、この目まぐるしき感情の移り変わりが科学的に証明され、正確な言葉で教科書に載るのだろうか。

 

人間とは時々、心秘の内に銀河を見せる。

【考察】「意識高い系」とは

私は現在、とある都内の大学に通っている。

 

この年頃になれば、

友人の中にはもちろん私と同じく4年制の大学に通う者、

(現在は3年なので年齢的に既卒だが)専門学校に通っていたもの、

また既に社会人として就職している者、

 

数年前まで同じ教室で同じ授業で過ごした仲間が、

今ではそれぞれの道へ歩みを止めない。

 

そんな同級生の動向を探るには、インスタグラムというアプリが最適である。

 

ストーリー機能という15秒ほどの動画が気軽に投稿できる機能では、

毎日毎日友人の近況が嫌でも流れ込んでくる。

 

 

 

ある日、中でもひと際、私の知的好奇心をくすぶるストーリーが眼中に飛び込む。

 

「行動を起こさなければ結果は伴わない。今の収入に満足していますか?

僕も以前は『自分なんかにどうせできない』と考えていました。が、

勇気を出して行動したことにより今ではお金に困ることはありません。

家族や友人に反対されることもありました。でも今では僕に毎日おごりを求めてきます。(笑)

行動しない人は、一生低収入で生涯を終えていきます。

それでいいんですか?

僕と一緒に、人生を変えていきましょう。気になる方はDMへ」

 

DMとはダイレクトメッセージの略だ。

 

 

 

冒頭一文は真理である。お見事な現世考察。

 

だが、後の文はと言えば胡散臭さ近所から漏れ出す実家の夕方のカレーの芳香が如し。

 

 

 

まただいたいこういった彼らの別日のストーリーでは、

ハイブランドの実店舗をめぐり

「たくさん使っちゃった!てへへ!」

「でもお金が幸せに使えるっていいよね!」

である。

 

 

 

私から見るに、いいや多くの人々もそうであろうが、

これを見て羨ましいような眼差しを向けることは少ないだろう。

 

おおかた擬人化自己顕示欲様である。

 

これは私個人の見解であり、予想だが、

多くのお金を稼ぎハイブランドやおいしい食事で満たされる自分と、

自分自身の本来の価値を混同してしまっているのではないだろうか。

 

 

 

私は近頃、こうした彼らの行うビジネスとやらに関心を寄せている。

いいや、別に参加しようというんじゃあない。

 

ビジネスモデルが気になるのである。

 

最近はビジネスや起業、また個人事業といった内容の調査をよく行うが、

(ストーリーには載せていないので意識高い系ではないはずである)

怪しいビジネスは必ずと言っていいほど、ビジネスモデルが明確化されないのだ。

 

 

いつか、どういった仕組みで彼らが収入を得ているのか徹底的に調査してみたい。

 

 

いずれにせよ金額で言えばかなりの額をもらっているようだが、

それに払う「友人の信頼」という対価はあまりに大きいものである。

 

換金できうるものでは到底ない。

 

 

 

彼らの生き様の選択は彼ら自身の問題であるからして否定はしない。

 

 

 

しかしながら、手に入る金額や満たされる自己顕示欲ばかりに目が行き、

支払う対価の重要性が見えていないのではないだろうか。

 

 

 

いないとは思うが、もしこのブログを読んでくださる方の中に思い当たる節がある方がいれば、得るものと失うものの価値判断をし直してはいかがだろうか。