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「日常は小説よりも奇なり」

【考察】「今日を人生最後の日だと思って生きる」←実感湧かなくて難しい

「今日を人生最後の日だと思って生きる」

 

このような考え方をしている成功者は多いし、

今日この日を浪費しないためにはいい考え方だと思う。

 

けれど私には、いまいち実感が沸かない。

 

 

 

 

「人生最後の日」と聞いて、人々は明確に、かつ具体的に想像できるのだろうか。

私には難しい。

 

 

 

 

それに、「人生最後」と聞くと何かを成し遂げなければいけないような気がしてくる。

けれど現実は今日思い立って簡単に偉業をなせるような造りじゃない。

 

ましてや、未来のために必要な努力を諦める理由になりかねない。

 

これは具体例を挙げよう。私のケースだが、

今日が人生最後の日なら、今月末にある資格試験の勉強をする意味はあるのだろうか。

 

その資格に向けた勉強を今日したところで、今日死んでしまったら意味がない。

 

 

 

 

しかし私はこの考え方、つまりは「後悔の無いように今日を生きる」という考え方は非常に良いものだと思っている。

 

ただ、「人生最後の日」という表現が合わないだけである。

 

つまり言い換えてしまえば万事解決というわけだ。

 

 

 

 

それでは、そんな私に捧ぐ、新たな言い換えを紹介しよう。

「今日が人生最後の日の走馬灯で見るとして、後悔の無いように生きよう」

というものだ。

 

 

 

 

人生最後の日を具体的に想像することはできないが、なんとなく、ぼんやりとなら分かる。

 

そのぼんやりとした死に際で、今日を走馬灯として見たらどうだろう。

 

もし必死に資格勉強を頑張っていれば、

「努力のできた、いい人生だった」と思うだろうし、

 

もしだらだらとYouTubeTikTokで時間を浪費していれば、

「ああ、結局何をしていたのだろう」と後悔するだろう。

 

 

 

 

先ほど挙げた「人生最後」の考え方の弱点を補填しつつ、

「今日を後悔の無いように生きる」という軸も崩さず、

これは我ながらいい考えを思いついたなと、自画自賛をしているところです。

 

 

 

 

それに、ここまでは「努力をするための考え方」として紹介したが、

他にも利用方法はある。

 

毎日やることが多すぎて自分の時間、また家族の時間を大切にできていない場合、

少し休憩して、これらの時間を大切にするきっかけにもなる。

 

たった15分でも、断れるものは断って、自分を大切にできる。

 

走馬灯に自分の笑顔の出演がないなんて、悲しいじゃないか。

 

 

 

 

さあて、では、今日はこの辺で、

 

気合いを入れて生きていこう。

 

今日を人生最後の日の走馬灯で見るとして、後悔の無いように。