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「日常は小説よりも奇なり」

【日常】最近気に入った詩を紹介しますね

  僕はなんでも思ひ出します


僕はなんでも思ひ出します


  でも、わけて思ひ出すことは


わけても思ひ出すことは……

 

――いいえ、もうもう云へません


決して、それは、云はないでせう

 

 

 

 

この詩を耳にしたことはあるだろうか。

 

これは中原中也さんの「別離」という詩の一節である。

 

つい最近、朝ドラの「ちむどんどん」にて紹介されたものなので、もしかすると聞き覚えのある人は多いかもしれない。

 

私もその朝ドラで知り、そして私はこの詩に感動した。

 

今日の話題は、この詩の素晴らしさをただ語るだけのものである。

 

 

 

 

前提として、私は普段から詩に触れているかと問われればそうではなく、

稀の気が向いたときに嗜む程度である。

 

だので、専門的な知識はおろか詩の評論界隈でのあたりまえすらも知らないため、有識者からしてみれば心地の悪いものになっていしまうかもしれない。

 

その点はご了承願いたい。

 

 

 

 

では、そろそろ語るとしよう。

 

まずは、「思ひ出します」という言い方、

敬語での表現である。

 

 

私が触れたことのある詩がたまたまそうであっただけなのかもしれないが、

少なくとも私は詩というものに対して敬語を使うというイメージがなく、

 

その点で新鮮さを感じたとともに、

これまでの詩に対する固定観念との間に矛盾を感じた。

 

 

 

 

実は私はこのような自己の固定観念、また信念との矛盾を感じることが好きで、

これまでの自身の中のあたりまえがゆっくりと崩れていく様を感じて快楽を得ているのである。

まあ、こういう書き方をするとまるで変態のようだが。

 

 

 

 

それとまた、昔ならではの「思ひ」や「云はないでせう」といった表現は、

この詩の歴史を感じることができるので味がある。

 

しかし味のある詩は他にもいくらでもあるわけで、

なぜこの詩なのか。

 

 

 

 

そこには先述した「敬語」と「昔ながらの言葉遣い」

と言った二者間の主観的矛盾にある。

 

また、少し客観的な観点に寄せて考察してみると、

現代を生きる我々にとってこの詩の言いまわしは独特で、いびつで、どこか不気味さを感じないだろうか。

 

 

 

 

この詩は「ちむどんどん」にて朗読という形で紹介されたが、

私はその朗読を聞いていて、

上のような独特さ、いびつさ、不気味さを感じた。

これこそが私の感じたこの詩の素晴らしさの本質である。

 

 

 

 

 

最後に、私はこれをきっかけに詩にハマりそうである。

普段は小説の中の純文学というものが好きだが、

詩にはこれと似たようなところがある。

 

たとえば、その作者自身の言葉で書かれた独自性。

または、その文章たちの自由性。

 

ストーリー性を意識して作者を楽しませる目的の大衆文学とは異なり、

純文学や詩は言ってしまえば自己満足的な側面がある。

 

 

 

 

しかしこの自己満足的な要素がそれぞれの味を出し、

そして私はそれらの味が好きなのである。