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「日常は小説よりも奇なり」

【哲学】まよなかの懐疑

初めに、流れに沿えば次は「娯楽放浪者的帰属(3)」だが、今日は小説な気分ではないので少し寄り道をすることにする。ご了承願いたい。

 

また、ここ数日体調を崩して更新が途絶えてしまった。

楽しみにしてくださっていた方がもしいたら、申し訳ない。

 

 

 

皆さんは、夜、一人、なんだが全て捨てたくなってしまうことはないだろうか。

 

私はよくある。だから夜は嫌いだ。

 

特に今、私は一人暮らしであるから、余計に深夜の孤独感が引き立つ。

 

 

また、これは個人的な偏見にも近いような感想だが、

田舎<郊外<都心の順に深夜に感じる孤独感は大きいのではないだろうか。

 

私は田舎出身で現在は東京で一人暮らしをしているが、こちらの人々の住民間での心的距離が遠くて驚いた。

 

今の下宿先には住んでもう2年になるが、隣の部屋の青年の名前すら知らない。

田舎ではありえないことだが、そんなものなのだろうか。

 

 

というように、都心の方が孤独感を感じやすいのではないかと考えた。

 

 

 

 

とはいえ、あの深夜独特の感情はいったい何なのだろう。

 

何とも言語化が難しいものである。

 

 

現代においてこの感情と、いわゆる「エモい」感情を万人が理解できるよう言語化できる人がいたのなら、その人は間違いなく令和の夏目や太宰といえよう。

 

万人の理解が得られるかはわからないが、私もいずれこの2つの感情に関しての執筆をしてみたい。

 

冒頭に「全てを捨てたくなってしまう」と書いたが、

実際に行動に起こす勇気は決まって毎度、ないのである。

 

時には自死を選んできれいさっぱりなくなりたいような感覚にも襲われるが、

かといってこの世に別れを告げるにはまだ早い気がする。

 

もしかしたらこうした思考と行動との間に生ずる矛盾こそが、まよなかの苦しみの本質なのかもしれない。

 

 

また、夜には疑い深くなる。

恋愛がよい例だ。

意中の異性とデートを終えた日の夜、遅くまで起きていると突然

 

「あの時のこの言葉はどういう意味だったのか」

「この行動をしたということは私のことはさほど重要に思っていないのか」

「もっとこういう言い回しができたのではないか」

 

などと人間不信、自己嫌悪のダブルパンチに打ちひしがれる、

全くもって自分勝手な感情である。

 

この感情の正体と対処法を知りたいが、知ってしまったらそれはそれで不安定さがなくなり、結果人生における面白みに欠けてしまうような気がして知ろうとはしない。

 

これもまた、思考と行動との間に生ずる矛盾である。

 

 

 

終わりに、近頃は暑いので、皆さんも熱中症には十分に注意してほしい。

エアコンは惜しんではならない。

エアコンの節約で結果熱中症になり、医療費がかさむ方が危険だ。

さらに、皆さんの命の価値はたった数ヶ月の高い光熱費よりは絶対に高いはずだ。

【小説】娯楽放浪者的帰属(2)

日をまたぎ、午前二時。

 

明日は履修登録の都合上授業のない、いわゆる全休であって、

私が天国と愛称をつけ可愛がっている曜日である。

 

前回の天国から一週間、結局私は怠惰であった。

 

平日は授業を無難にこなし、残るはゲームにあてる。

休日は遅くまで夢うつつを彷徨い、残るはゲームにあてる。

 

 

 

ふと、娯楽を娯楽程度にうまく制御できていた少年の頃を思い出した。

 

当時は決して怠惰な学歴不振児ではなく、国語も、算数も、九割がたは理解できていたし、点数も相応だった。

 

ゲームは一時間と禁止されていたが、それでもその中でどう効率的に進められようか、

授業中のノートに向かい作戦会議を申し立てる日々であった。

 

少し度が過ぎる前兆はあれど、それは完全に娯楽としての付き合いであったし、

制御が効かず従属する未来など見えていなかった。

 

 

 

ここまで来て、私には一人の幼馴染が見えていた。

保育園からの付き合いで、名は新谷美咲。

 

新谷とは目が合った際の少量の興奮はあれど、

ずっと友人としての付き合いであったし、

まさか家族間で縁談が固まるだなんて思っていなかった。

 

お互いまだ大学生であるから、

卒業後に籍を入れると両親。

焦りすぎだ。結婚ができないと徴兵にでも駆り出されるとお思いか。

 

 

 

縁談はともかく、ゲームにはもうすでに尻に敷かれてしまった。

 

新谷にも、と考えかけて自制。

彼女は気が強いから、と想像しかけて自省。

 

 

 

そういえば、嫁(仮)の二つ上の兄は現在はエリートビジネスマンとして働いているらしいが、

 

どうやら数年前は新卒の勤め先に精神を蝕まれた挙句ゲームにその生涯を捧げようとしていたそうではないか。

 

今は全くゲームはしていないという。

 

そんなに人間変わるだろうか。

 

 

 

 

時間は午前三時を回ったが、一度気になるとどうしようもない。

 

「お久しぶりです。美琴お義兄さん。少し相談があるのですが。」

 

全く女の子のような名前の彼は、生粋の高身長濃い顔だ。

「これで背が低く、犬のようにかわいがられるような男であれば女性関係で在庫不足を起こす必要はないであろうに。」

少しの同情を覚えた。危うく送信しそうになり慌てて削除する。

もはや無意識だが、私は自身の顔に一定の自信があり、それからの発言だ。

 

このメッセージ通知で目が覚めてしまわないよう、願いながら送る。

 

少しの期待に乗じて十分ほど返信を待ってみるが、やはり来ない。

実際明日、いいや日付が変わり今日、私は全休であるが世間一般は単なる平日である。

 

 

 

漠然とした不安と焦燥が依然枕に染み付いたベッドの上で、

 

メッセージの送信をゲーム依存からの脱却の第一歩だと認識した脳内報酬系ドーパミンを供給。

 

小さな満足感にすっかり酩酊した私は、このまま明日を迎えた。

 

やがて鳴る携帯の通知音には気が付かなかった。

 

 

「娯楽放浪者的帰属(3)」へ続く・・・

【小説】娯楽放浪者的帰属(1)

私はもうずっと、ゲームが中心の人生を送っている。

 

 

 

確か今年で5年だろうか。

長い長い人生基準で考えればせいぜい5年だが、

私の年齢を考えればそれは割合的にかなり高いし、

それに、ゲームの優先順位を最大化した生活が身に染みるには十分な期間である。

 

いわゆる、ソシャゲだ。スマホ一つでどこでもゲームができる。

「便利な時代になったものだ。」

と、小学生の頃学校から帰るや否や備え付けのゲーム機で遊んでいた少年の口から思わずこぼれた。

 

 

 

ただ、課金はしていない。

お金をかけるほどソシャゲには価値がない。

私はもっと生産的なものにお金をかけたい。

 

「課金しないの?」

と度々友人に訪ねられるが、その際は

「結局データじゃん?消えたらそれで終わり。そんな自己満に金かけてらんないよ。」

といった定型句が出てくるものだ。

 

 

 

もっとも、この時の私はばかで、これを尋ねられた学校の帰りにコンビニに寄り新作スイーツを買うのだ。

コンビニスイーツは食べたらそれで終わり。そんな自己満である。

 

また、生産的なものにお金を使いたいくせにそれが何なのか、いまいちよく分からない。

 

更にこれが最も重大なことであるが、お金をかけるほどの価値を見出していないソシャゲに私は見当もつかないほどの時間を費やしてきた。

 

当時から時々、「こんなことに時間使ってていいのかよ」と不安になることはあったが、それもそこまで重要視したわけではない。

 

「今が楽しくて何が悪い。」と開き直っていた。

 

 

 

と、まあこんなふうに私の自己分析ないし自省は完璧である。

 

 

 

では今はどんな暮らしぶりをしているだろうか。

どんな生産的ルーティーンをこなしているだろうか。

ご紹介しよう。

 

 

 

朝起きて、お手洗いへ。

顔を洗い、歯を磨き、

冷蔵庫へ手を伸ばす。私はその時に手を撫でる冷気が好きだ。

取り出したのは飲みかけのエナジードリンク

そしてテレビをつける。そこに映るのは爽やかな朝番組のキャスター陣ではない。

ゲームのローディング画面。

正確に言えばテレビではなく、ディスプレイか。

そうして昼までゲームをして、

正午の時報カップラーメン完成の合図だ。

今日も麵をすすりながらゲームで課されたタスクを一流ビジネスマンのようにテキパキとこなす。

気が付くと外が色づき、少し肌寒さを感じる。

これが今日の授業開始合図である。

今日の授業は全部で3つ、すべてオンラインで、オンデマンド型。

なんとなく動画を見て、レポートを書いて、もう外は真っ暗である。

大学生とはいい御身分であるなと自己陶酔しつつ、

先ほどやりきれなかったタスクに集中する。

この後はただ腹がすいたら何か探し求めて満たし、

眠くなったら寝るのである。

 

 

 

「はあ。」

 

溜息も無理はない。いくら自分のことが分析できて、自省していようとも、

結局ゲームをしているのである。

 

そんな自分が、嫌になる。

 

 

 

「娯楽放浪者的帰属(2)」へ続く・・・

【考察】鬱り替わり

憂鬱という書く者すら憂鬱にさせる不思議な言葉。

 

 

 

いったい何なのだろう。

 

定期的に心を蝕んでは、また嵐の如く去っていく。

 

それはまるでロマンティックな恋愛のようで、または単に堕落のようで、

適切な距離を保つのはいつだって難しい。

 

だって気が付いた時にはもう、心の中に潜んで蝕み終えているのだから。

 

 

 

では私たちが考えるべきは、

「どうしたら入り込む余地を減らせるか」と、

「どうしたら受けるダメージを抑えられるか」

である。

 

対処法から見れば、自然災害の一つのようでもある。

 

正直な話、これの答えは分からない。

絶賛捜索中である。

 

強いて言えば、私はこれまで「限界までゲームに入り浸る」という戦略でコーピングを試みていた。

しかし、最近はゲームが一時間も続かない。

 

理由は分かっている。

「このゲームを極めても知らない人には凄さは伝わらない。しかも、データはいつか消える。」という事実に気が付いてしまった。

 

これに気が付いてから本能的にゲームを拒絶しているかのように、私の体は「ゲームをしている自分」に対して嫌悪感を示す。

 

その嫌悪感に対して今度はそんな自分に嫌悪感を抱く。

全く負のジレンマだ。

 

一番やった日は23時間、同じクエストを周回したこともある。

ロボットさながら、いいやそれ以上、現代のAI技術では到底太刀打ちできまい。

これは自己陶酔だが。

 

ゲームをしたいと思う時間はある。

しかし、その感情が少し引き波の如く、それに対する嫌悪感が押し寄せる。

 

いったいこれからどうしていこうか。

 

他にも読書、勉強などはあるがなんだかいまいちである。

私は深夜中、ゲームがしていたいのだ。

 

 

 

少し話がずれてしまった。

 

タイトルは「鬱り替わり」である。

 

先ほども言ったように、鬱とはある日の恋のような、即効性のある劇薬だ。

 

その時の感情は、現代最新科学をもってしても解明できないであろう程目まぐるしい変化を短時間の間に経験する。

 

次々と感情が移り変わる。

ある時は恋しく、またある時は憎く、それでいて無関心だ。

 

 

 

それでは果たして、私たちはこの呪縛から逃れる指南書を持ち合わせているだろうか。

 

残念ながら持っていない。と思う。

私はまだ20代で、世界を語るにはあまりにも若すぎる。

なので私の育った道にたまたまそれが無かっただけかもしれない。

 

しかし、それがあったら自殺者人口はもっと少ないはずである。

 

 

 

いつか、この目まぐるしき感情の移り変わりが科学的に証明され、正確な言葉で教科書に載るのだろうか。

 

人間とは時々、心秘の内に銀河を見せる。

【考察】「意識高い系」とは

私は現在、とある都内の大学に通っている。

 

この年頃になれば、

友人の中にはもちろん私と同じく4年制の大学に通う者、

(現在は3年なので年齢的に既卒だが)専門学校に通っていたもの、

また既に社会人として就職している者、

 

数年前まで同じ教室で同じ授業で過ごした仲間が、

今ではそれぞれの道へ歩みを止めない。

 

そんな同級生の動向を探るには、インスタグラムというアプリが最適である。

 

ストーリー機能という15秒ほどの動画が気軽に投稿できる機能では、

毎日毎日友人の近況が嫌でも流れ込んでくる。

 

 

 

ある日、中でもひと際、私の知的好奇心をくすぶるストーリーが眼中に飛び込む。

 

「行動を起こさなければ結果は伴わない。今の収入に満足していますか?

僕も以前は『自分なんかにどうせできない』と考えていました。が、

勇気を出して行動したことにより今ではお金に困ることはありません。

家族や友人に反対されることもありました。でも今では僕に毎日おごりを求めてきます。(笑)

行動しない人は、一生低収入で生涯を終えていきます。

それでいいんですか?

僕と一緒に、人生を変えていきましょう。気になる方はDMへ」

 

DMとはダイレクトメッセージの略だ。

 

 

 

冒頭一文は真理である。お見事な現世考察。

 

だが、後の文はと言えば胡散臭さ近所から漏れ出す実家の夕方のカレーの芳香が如し。

 

 

 

まただいたいこういった彼らの別日のストーリーでは、

ハイブランドの実店舗をめぐり

「たくさん使っちゃった!てへへ!」

「でもお金が幸せに使えるっていいよね!」

である。

 

 

 

私から見るに、いいや多くの人々もそうであろうが、

これを見て羨ましいような眼差しを向けることは少ないだろう。

 

おおかた擬人化自己顕示欲様である。

 

これは私個人の見解であり、予想だが、

多くのお金を稼ぎハイブランドやおいしい食事で満たされる自分と、

自分自身の本来の価値を混同してしまっているのではないだろうか。

 

 

 

私は近頃、こうした彼らの行うビジネスとやらに関心を寄せている。

いいや、別に参加しようというんじゃあない。

 

ビジネスモデルが気になるのである。

 

最近はビジネスや起業、また個人事業といった内容の調査をよく行うが、

(ストーリーには載せていないので意識高い系ではないはずである)

怪しいビジネスは必ずと言っていいほど、ビジネスモデルが明確化されないのだ。

 

 

いつか、どういった仕組みで彼らが収入を得ているのか徹底的に調査してみたい。

 

 

いずれにせよ金額で言えばかなりの額をもらっているようだが、

それに払う「友人の信頼」という対価はあまりに大きいものである。

 

換金できうるものでは到底ない。

 

 

 

彼らの生き様の選択は彼ら自身の問題であるからして否定はしない。

 

 

 

しかしながら、手に入る金額や満たされる自己顕示欲ばかりに目が行き、

支払う対価の重要性が見えていないのではないだろうか。

 

 

 

いないとは思うが、もしこのブログを読んでくださる方の中に思い当たる節がある方がいれば、得るものと失うものの価値判断をし直してはいかがだろうか。

【自伝】ホームシック

一人暮らしを始めて、早2年である。

 

もう以前のように普段生活を送るうえで困ることは特にない。

 

「休日は家にいたい。」というセリフからも読み取れるように、

自分の中でこの部屋は自分のテリトリーとしてのアイデンティティを確立したようだ。

 

敵の侵入可能性のない安全地帯であるが、

しかしなぜか最近心からの安心が得られない。

 

私はこのテリトリーのほかに、もう一つ、

昔からその地位を確立して暫く独裁勢力であったテリトリーが存在する。

 

実家である。今のこの借家よりもっと潜在的な信頼感、安心感がそこにはある。

 

どうやら私は、これを体感したがっているみたいだ。

 

 

 

実家の嗅ぎ慣れた匂い、見慣れた造り、そして住んでいる家族。

 

その因子から構成される実家イメージに浸りたい頃合いである。

 

 

 

以前に帰郷したのは3月であるから、もう3ヶ月が経とうとしている。

 

同じく一人で生活をしている同志たちから見たら、

「たった3ヶ月かよ」

と思うかもしれない。

 

仕事で言えば3ヶ月は仕事に慣れてくるが、まだまだ新人である。

恋愛で言えばそろそろ第一次倦怠期であろうか、ここが正念場である。

しかしいずれもまだ、たかが、3ヶ月だ。

 

だが、これが困ったことに3ヶ月でこちらは半ば限界なのである。

 

7月の終わりまでテストがあり、8月の初めから夏休み、9月の中旬少し前に再開する。

 

今日は6月28日であるので、残りあと1か月の辛抱である。

 

 

 

無理である。無理をさせるでない。

 

下宿を始めたことに後悔はない。学ぶことは多く、凄く刺激的だ。

 

また私の下宿先は東京であるからして、田舎者には刺激が強すぎたと言ってもいい。

 

当初は渋谷、新宿、原宿に想いを寄せては観光の機会をうかがっていたが、

 

今はそんな気にすらならない。

 

 

 

これはもちろん某疫病の感染への懸念もあるが、

なによりも人が多すぎる。

 

満員電車を見ると毎度思うのだが、

この雑多一人ひとりに感情があり、自分と同じ生物だと思うと、

申し訳ないが、気持ち悪い。

 

人間がこれほど多いとは思わなかった。

 

更に残念なことに、その人間の8割が無関心、無表情。

 

あれを無我の境地というのだろうか。

 

つまらなそうな顔をしている。

 

それを見ているとまるで、地獄の底から這いあがってきた屍が私を都会という大混沌のなかに引きずり込もうとしているように錯覚する。

いいや、これも失礼だが。

 

しかしそう実感してしまったのだ。

 

田舎のあの日常から見れば、この土地は人間臭い。私には合わない。

 

 

 

いずれにせよ、私はあと1か月、耐えねばならない。

 

自己暗示ほど立派ではないが、

エデンに昇るための下積み期間として耐え抜こう。

 

そう、私にはエデンが待っているではないか。

 

幸運なことに、アダムとイヴは、ご健在だ。

【哲学】この世の儚さについて

自分の容姿は、立ち位置は、世界情勢は、交友関係は、

絶えず変化していくものである。

 

残念ながら手にしたそれがどんなに自分にとってよいものであっても、いつかは手放すこととなる。

 

人間は変化に怯えつつ、絶えず変化していくものである。

 

今回は、前回に続き親という観点から考えよう。

 

あなたが生まれた時、あなたの親は何歳であったか。

そして今現在、何歳であるか。

見た目の変化はあっただろうか。

 

人間誰しも老いていき、やがては死んでいく。

今回のテーマは、これをどう捉えるか。である。

 

やがて死ぬと聞くと、やはり子の立場でも、親の立場でも、

死んでほしくはないし、死にたくはないと思う。

つまり、不変を願うわけだ。

 

しかし、それは叶わない。

私たちは願いつつ、それにはどこかで勘付いているはずだ。

しかしなお、不変を願ってしまうのだから人間は面白い。

 

私も例にもれず不変を願ってしまう。

現在は「儚さ(可変)の美しさ」にすっかり魅了されてしまったが、

それでも半ば無意識的に不変を願ってしまうことがある。

 

ではこうした不変信者たちは、散りゆく桜を見て嘆くだろうか。

いいや、「今年もきれいだ」と呑気に花びらの断末魔を盃のお供と添える。

見事な矛盾である。

 

特に日本人はそういった傾向が強そうである。

少しは可変の儚さに対する美学も持ち合わせているようだ。

 

ここからは、私から見た親という儚きものの美しさを紹介しよう。

皆さんが儚さに一層思いを寄せる一助になれたら幸いだ。

 

本質から伝えると、

「戻せないから美しい」

ということである。

 

これは儚いもの全般に言えることだが、

時間を戻す力が私たちに備わらない以上、ただ一方的に時間は進むだけである。

 

だからこそ、今現在を生きる大切さが強調される。

 

だって過去に戻れたら「次は頑張るか」「今回はいいや」と現在をないがしろにしてしまうし、それにさほど問題はない。いつだってやり直せるのだから。

 

現代人の中には時間を戻す能力が皆無にもかかわらず「明日は頑張ろう」「今日はいいや」と現在に盲目である人も多いのではなかろうか。

 

これでは儚さを嗜む紳士淑女には程遠い。

 

儚いことの美しさとは、際限のあるものが

残された時間をどう使い、どう変化していくかにあると私は考える。

 

親でいえば、残された寿命や、子供が巣立つまでの限られた時間の中で、

どうして愛情を伝えるか、そして自分はどう変化していくかにあるのではないか。

 

もう勘のいい方はお気づきかと思うが、この儚さを大切にし、実感的に感じるには

今現在を大切に生きていくことだ不可欠であり、

それが同時に近道なのだと思う。

 

いつかは終わるこの儚き命で、

今日も必死に足搔こうじゃないか。