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「日常は小説よりも奇なり」

【哲学】この世の儚さについて

自分の容姿は、立ち位置は、世界情勢は、交友関係は、

絶えず変化していくものである。

 

残念ながら手にしたそれがどんなに自分にとってよいものであっても、いつかは手放すこととなる。

 

人間は変化に怯えつつ、絶えず変化していくものである。

 

今回は、前回に続き親という観点から考えよう。

 

あなたが生まれた時、あなたの親は何歳であったか。

そして今現在、何歳であるか。

見た目の変化はあっただろうか。

 

人間誰しも老いていき、やがては死んでいく。

今回のテーマは、これをどう捉えるか。である。

 

やがて死ぬと聞くと、やはり子の立場でも、親の立場でも、

死んでほしくはないし、死にたくはないと思う。

つまり、不変を願うわけだ。

 

しかし、それは叶わない。

私たちは願いつつ、それにはどこかで勘付いているはずだ。

しかしなお、不変を願ってしまうのだから人間は面白い。

 

私も例にもれず不変を願ってしまう。

現在は「儚さ(可変)の美しさ」にすっかり魅了されてしまったが、

それでも半ば無意識的に不変を願ってしまうことがある。

 

ではこうした不変信者たちは、散りゆく桜を見て嘆くだろうか。

いいや、「今年もきれいだ」と呑気に花びらの断末魔を盃のお供と添える。

見事な矛盾である。

 

特に日本人はそういった傾向が強そうである。

少しは可変の儚さに対する美学も持ち合わせているようだ。

 

ここからは、私から見た親という儚きものの美しさを紹介しよう。

皆さんが儚さに一層思いを寄せる一助になれたら幸いだ。

 

本質から伝えると、

「戻せないから美しい」

ということである。

 

これは儚いもの全般に言えることだが、

時間を戻す力が私たちに備わらない以上、ただ一方的に時間は進むだけである。

 

だからこそ、今現在を生きる大切さが強調される。

 

だって過去に戻れたら「次は頑張るか」「今回はいいや」と現在をないがしろにしてしまうし、それにさほど問題はない。いつだってやり直せるのだから。

 

現代人の中には時間を戻す能力が皆無にもかかわらず「明日は頑張ろう」「今日はいいや」と現在に盲目である人も多いのではなかろうか。

 

これでは儚さを嗜む紳士淑女には程遠い。

 

儚いことの美しさとは、際限のあるものが

残された時間をどう使い、どう変化していくかにあると私は考える。

 

親でいえば、残された寿命や、子供が巣立つまでの限られた時間の中で、

どうして愛情を伝えるか、そして自分はどう変化していくかにあるのではないか。

 

もう勘のいい方はお気づきかと思うが、この儚さを大切にし、実感的に感じるには

今現在を大切に生きていくことだ不可欠であり、

それが同時に近道なのだと思う。

 

いつかは終わるこの儚き命で、

今日も必死に足搔こうじゃないか。