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「日常は小説よりも奇なり」

親の偉大さについて(2)

これは最近読んだ本にもあったものだし、よく言われるものであるが、

 

「他人を幸せにするにはまず自分から」

「他者への貢献が自分の幸せにつながる」

 

などこの手のメッセージは見覚え、聞き覚えがある方も多いのではないだろうか。

 

一見両者は矛盾しているようにもみえるが、「幸せにおける、他者と自分との相補性」という観点では共通である。

彼らが言うには、どうやら幸せに他者は必要条件となるようだ。

これには賛成する。

 

ところで、自分が幸せになって、また他者も伴って幸せになったと実感するにはまず誰に貢献すべきだろうか。

 

ここからは高濃度な私の持論展開編であるが、それは親である。

自分を一番近くで見守ってくれていた(くれている)たった唯一の存在なのである。

 

漠然とした誰かへの他者貢献は思いつきにくくても、

親への貢献なら比較的簡単に思いつくのではないだろうか。

 

エデンの園、アダムとイヴの存在をすべての父と母であるように崇拝していた方々がいると中学、高校で習った。

人々の考え方をまとめて統治しやすくするためなのか、残念ながらその辺に私は疎いが、もうすでに彼ら自身の中にアダムとイヴは存在しているのに、なぜ二組目を追い求めるのか。

 

なぜ他人と共通の容姿、経歴を持った共通のアダムとイヴに思いを馳せるのか。

彼らはずっと小さな時から、彼ら自身のアダムとイヴに触れてきたはずである。

今更代用など必要ないのではないか。

 

一方、皆さんはインプリンティングの実験をご存じだろうか。

「ヒナは最初に見たものを親と認識する」ことはご存じの方も多いと思うが、要はその実験、および現象である。

 

人間にこの性質が備わっていて、永遠不変のものにインプリンティングを生じさせたら親は永遠不変の存在となり、「親を失う」ことはない。

人間には死という避けられないビッグイベントがあるがこれは親も同様で、いつかあの偉大な精神は消え失せ、あの偉大な背中は骨と化す。

 

以前はそんな事実そんな現実に嘆き永遠不変に思いを馳せたものだが、今は違う。

 

私はある時から、

限りあるものの美しさに気が付いた。

 

日本人にとってはなじみ深い文化ではなかろうか。

散りゆく桜に思いを馳せたのは他でもない、日本人である。

 

儚いことはこの上なく美しいと言えよう。

今日も1000文字に近づいているから、儚さについては明日の話題として、

 

私が言いたいのは、

親とは儚く、最も近く、偉大な、そして美しい人間である。

そんな親を、皆さんは大切にできているだろうか。

もし皆さんの親がご健在なのであれば、

ただの、生きていくうえでのスポンサー契約にはなっていないだろうか。

 

今日、あなたの親は

笑っているだろうか。

 

親子関係とは不思議なものである。

もし自分がいずれ子供を授かったとしたら、子育てがひと段落した後でもう一度

親について書いてみたいし、

これを読んで何を思うのか、聞いてみたいものである。