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「日常は小説よりも奇なり」

「忙しい」心を亡くすと書くようだ

忙しいという漢字は、心を亡くすと書く。

であるから、息抜きしてメンタルヘルスを保とうととある先生は言ってくれた。

 

本当に、心を亡くしているだろうか。

これでは忙しいが、充実しているという状態が説明できないのではないか。

 

もちろんいわゆるブラック企業社畜を演じているのなら、心はとうにご臨終であろう。

しかし、たとえば被災地のボランティア活動に積極的に出向く人がいたとして、彼はきっと義務感からボランティアをしているのではないであろう。きっと「ありがとう」が聞きたいや、笑顔が見たい、役立ちたいという動機からであろう。

 

後者の場合、心は亡くなっているだろうか。

 

私はボランティアの類は1度しか経験がないが、(いいや、私は慈悲深き人間であるが機会がないだけである)それほど経験がなくてもボランティア活動というものは、特に被災地などは、多忙であろうと想像に容易い。

けれど、ほとんどの人間は、ブラック企業の勤務終わりには無感情、無表情になるくせボランティア活動を終えた後の顔は、肉体的にも精神的にも疲れはあれど生き生きとしていないだろうか。充実感が心に満ちているのではないか。

 

これを、心を亡くすと言ってしまうのはあまりにナンセンスなカテゴライズである。

 

これは私の経験であるが、充実した日々というのはその日の充実感と共に、良い記憶として残る傾向があるように思える。一般的にも同じではないであろうか。

私の例を紹介しよう。これは中学3年生、修学旅行の学年統率副係長という役員に着任したときである。

毎日5時間の授業、それでいて当時はゲームの攻略という重大任務を抱えつつ(受験生にもかかわらずゲームを優先していたことに関しての意見は心の中の秘め事として墓場に運んでいただきたい)、修学旅行の行動予定や学年の動きを係長、そして担当の教師と共に相談しまさに多忙であった。

 

では心を亡くしていたかと言えば、そうではない。

なんなら生きている実感が持てたと言ってもいいかもしれない。

 

これは中学生の時期にありがちであろうが、例により私もアイデンティティの確立には苦労したものだ。自分とは何なのか。なぜ生きるのか。

のちにこれは私の哲学への興味の一助となるわけであり、その面では感謝している。

しかし当時は毎日の生きる目的を見失っていた。

ただ修学旅行前の多忙な時期に入り、毎日が楽しかった。

心は、亡くなっていない。蘇生したと言ってもいい。

 

最後に、当時担当だった教師に言われた言葉で締めようと思う。

「忙しいよな。でも、これってすごく楽しくないか。」

普通の言葉ではあるが、悩み多き少年を勇気づけるには丁度良い言葉であった。