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「日常は小説よりも奇なり」

「継続」について

「継続は力なり」

 

中学校の学級通信に書いてあった言葉である。

当時はこれほどに大切な言葉であるとはつゆ知らず、落書きで「継続はかなりつらい!」と書いていたほどだ。

大学生になった今、この言葉の大切さにようやく気が付くことができた。

以前は「継続しても報われる保証はないではないか」と半ば諦めていたが、何か大きなことを達成するためにはこの「継続」というものは不可欠だと悟ってきた。

今思えば、中学生の当時から継続の大切さについては心のどこかで気が付いていたかもしれない。つまり、「報われる保証がない」という事実を持ち出すことにより継続しないことを正当化していた。

まったく、愚かである。怠惰である。

それでいて野望だけは誰よりも大きいと自負しているのだから余計上乗せで厄介である。

毎夜毎夜、理想と現実のギャップが耳元で囁いていた。

 

そもそも、これは継続に限ったことではないが、世の中の事柄の中で自分の意思が関わることに関して言えば「できる、できない」ではなく「やる、やらない」の二択ではないだろうか。

大学受験の時期、よく「今から〇か月勉強すれば、△△大学受かりますか?」という質問が飛び交っていた。正直な話、そんなの分からない。

その人の一日の努力量や、勉強方法の相性にも依存するだろう。

でもだからこそ、継続できていない過去の自分、そして今の自分の正当化に便利なのではないか。答えは正直自分でもわからないから、あいまいな答えに乗じて自身の継続する理由も濁そうとしているのではないか。

これはやはり憶測の域を出ないが、少なくとも私はそうであった。

 

先ほどから、「今の私は違う」ような書き方をしているが、実際に違うのだ。

継続は言うまでもなく面倒で、忍耐のいるものである。

これは高校時代、日々の継続的な勉強から逃げていた。「なぜ勉強するのか?」を研究者かの如く四六時中考えていた。勉強をしていない間は何をしていたか。ゲームをしていた。”継続的に”ゲームをしていた。愚かなジレンマである。

多くの人も今、何かを継続したいが結局すぐに辞めてはいないだろうか。「結局何のためにやっているんだ」とか「結果でないじゃん、やる意味ないかも」とそんな理由で簡単に諦めていないか。そんな人でも、すくなくとも睡眠は継続的に行っている。

睡眠は「ただ眠くなったから」であり、そこにモチベーションも何もない。

それくらいでいいじゃないか。

 

「なんかやってみたくなったから」

これは、この第一投稿目の小説ブログを執筆している今の心境である。