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「日常は小説よりも奇なり」

【考察】テレビのアイデンティティ危機

私は普段、テレビを見ない。

見るとすればそれは平日朝8時、朝ドラの時間である。

 

近年の一人暮らし世代は正直、こんなもんだと思う。

 

 

 

 

しかしこれまで、つまり中高生の頃はどうであったかというと、

起床して二階から一階に降りると、必ずテレビが付いていた。

そして時間は飛んで学校から下校した後、

そこでも、必ず夕方のニュースなどが流れていた。

 

これはもう習慣化していて、当時はそれに対して特に何も思わなかった。

何となくやっている番組を見て、いいや聞き流して、

言ってしまえば惰性であった。

 

 

 

 

しかし一人暮らしを始めたことによりそのような習慣とは距離を置くことになる。

 

最初こそ習慣の名残で昼間のニュースを見ることはあったが、

ゴールデンタイムの番組は見ないし、次第にニュースさえも見なくなった。

 

 

 

だから、流行りの芸人や俳優も知らないし、無駄なニュースも入ってこない。

 

 

 

流行りに関しては、私は社会や世間の流行りの価値より自分の個人的な流行りの方が何千倍もの価値があるという考え方なので、知らなくて困ることはない。

 

 

 

無駄なニュースに関しては、これはニュースから半年近く距離を置いて気が付いたことだが、

本当に、どうでもいいニュースが多い。

 

 

 

かといってニュースに対する批判を並べたいわけではないということは気に留めておいてほしい。

 

けれどやっぱりどうしても、知らない街の知らない事件や、芸能人の離婚がどう、トラブルがどうとか。あとは結婚した、妊娠したなど。

 

 

 

私自身のあまり他人に関心を持ちたくないという性格によってさらなるバイアスがかかっていることも確かだが、これを知って何になるのだろうか。

 

 

 

例えば「スポーツ選手がこんな偉業を成し遂げた」というニュースがあるとして、それに価値はあるのだろうか。

 

確かに選手自身の承認欲求やその親族が誇りをもてる面では良いし、人生の教訓として受け取ることができれば有益である。しかし、教訓は日常的に得られるものではないことも確かだろう。

 

この感情を実際に文字にしてみて思ったが、

テレビに有益さを求めるのは違うのかもしれない。

 

確かに学べる番組はあるが、特に意味のない惰性ニュース、惰性番組があってもよい。

 

 

 

 

この点でYouTueが優勢に立っていそうだが、テレビならではのこともある。

 

 

 

若年層のテレビ離れが進行している。

 

 

 

テレビの形は変わるだろうか。

 

 

いずれ1家庭に1テレビではなく、1家庭に1ディスプレイの時代が来るだろう。

というかもう来てる。

 

 

 

ここまで考えてきてなんだが、私は楽しめればどっちでもいい

【日常】実家帰省記(初日の朝)

驚いた。

 

まさか実家がこれほどに快適で、

これほどに贅沢な環境であったとは。

 

 

 

 

ここひと月は金欠、大量のレポート課題、テスト、孤独などなど多くの問題が同時に押し寄せてきたから、反うつ状態でもあった。

 

それらを乗り越えて昨日、ようやく帰省した。

 

到着は夕方で、そのまま昨日はゆっくりと土産話を聞かせたり、聞いたりして過ごした。

 

そして翌朝の今日である。

 

もしかしたらこれは「初日の朝」ではなく「二日目の朝」かもしれないが、昨日は夕方からしかいなかったということでご勘弁を。

 

 

 

 

昨日から驚きの連続だが、特に今朝からのことを書こうと思う。

 

朝は豊かな鳥のさえずりが出迎えてくれる。

私の地元は長野県であり、自然が豊富だ。

 

 

 

 

家の二階で寝ていたが、一階の生活スペースに降りると母親が朝食を作っていた。

 

これまで食費の関係で一日一食、五袋300円程度の袋麺を一つ食べていたこともあるくらいに困窮していた。

 

両親や祖父母に救援物資を要請することもできたが、どうせすぐに帰るからと遠慮がちであった。

 

そんな不健康で小食な青年の前に今、バランスの取れた一日三食という贅沢な幻想が現実化して現れた。

 

 

 

 

しばらくすると父親も、妹も起きてきて、

夢にまで見た平和な生活に、このブログで綴らずにはいられなかった。

 

 

 

 

私は今、毎朝連続テレビ小説、いわゆる朝ドラを見るのが日課になっている。

 

確かに一人暮らしの家でゆったりと見ることも幸福だが、

正直な話、実家で見る朝ドラの幸福度の足元にも及ばない。

 

今、着実に、そして明らかに生を実感し、幸せを体感している。

 

 

 

これから約一か月半、この楽土での生活が許されている。

 

帰った時のことを考えると今でも恐怖を覚えるが、

今はそんなことどうでもいい。

 

ただ今に焦点を当てて、

今を生きて、

今ここにある幸せを抱いて

私は今日も生きていく。

 

 

 

 

精神状態は良好で、これからまた毎日のブログ更新を頑張ってみようと思う。

 

前にも書いたかもしれないが、私はこれを自分の感情と向き合う機会として捉えている。

 

だから精神的に余裕のなかった時に続けることができなかったのだが。

 

今日この日の感情を大切にしたい。

 

 

 

 

先ほどから「今を生きる」という意味合いの言葉を多用しているが、

これは最近この生き方の重要性に気が付いたからかもしれない。

 

過去の失敗という事実は曲げられず、未来への不安はきっと生きていくうえで生涯つきまとうのだと思う。

 

だったら過去の失敗を今の糧として、

将来の不安は重く考えず今に焦点を当てて生きた方が楽しそうではないか。

 

千里の道も一歩よりと言うが、この考え方にも通ずるところがある。

 

 

 

 

今はこれからどんな日々が、そしてどんな今日が待っているのかを考えると

でぇじちむどんどんする。

 

【日常】続けることができないあなたへ

続けることができないあなたへ

 

各夕わたしも、そうである。

 

まさにこのブログの更新、気分がすぐれないと、

すぐに「また明日」と先延ばしにしてしまう。

 

そこで、私は考えた。

 

 

続けられない私たちに本当に必要なのは、

「這い上がる力」なのではないかと。

 

 

何か継続したいことがあって、それができないときはどうするだろうか。

 

大抵、「継続の方法」を探すのではないだろうか。

 

それよりも、一度継続ができなかった自分を認めて、そこから這い上がっていけばよいではないか。

 

 

 

 

多くの人々が継続の難しさに悩んでいることからもわかるように、

これはあなた個人がどうとかではなく、人間普遍的に苦手なのではないだろうか。

 

それにどこか「継続ができない=無能」とも言うような認識が蔓延っているように感じる。

 

要するにこの認識は誤りであり、失敗したら這い上がる。それだけでよい。

 

 

 

例えば家計簿をつけようと決心して、それが3日で終わってしまった。

これに対して「継続の失敗」だと捉えれば自己肯定感という面でもよくない。

 

さらに言えば、これを機に家計簿をきっぱり諦めてしまえば楽なものを、

数週間後にまた結局試みる。

 

三日坊主が頻発するようなら、確かに継続の方法を見直すべきだが、

それよりも、どうせまたやるのなら、すぐに這い上がって実質的な継続をしてしまえばいいのではないだろうか。

 

 

まだ具体例によって噛み砕き、明確に考えが伝わるようにしたいが

今日は気分じゃないのでこの辺で。

【日常】気持ちの良い晴れ間

窓の上部にはきれいな青色が描かれている。

窓の下部にはきれいな緑色が描かれている。

 

 

これらを見るのはもう数十回目目になるが、今日の日差しを浴びるのは今日が初めてであって、毎度新鮮な心持である。

 

 

私はこれを眺めながら、「この後の時間はどう過ごそうか」とぼんやり考えるのが好きだ。

 

考えるといっても答えを導き出すためのものではなく、なんとなく脳の寂しさを埋めるための、いわば嗜好としての思考だ。

 

更にここに、体を伸ばして大きく欠伸をするというオプションを加えればもう、

それはたちまちヘブンズ・ゲートと姿を変える。

 

 

 

私の大学は今ちょうど遅めのテスト期間、レポート提出期間に入り、今週はプレゼンテーションも控えている。

 

さらに言うと別で数件、仕事の案件も抱えており、

正直なところ最高に多忙な時期である。

 

このように考えなければならないことや、やらなければならないことが今はたくさんあるが、この清々しい天気を前にしては彼らは無力で、

 

作業がはかどり自己肯定感も上がっていく。

 

 

 

最近は天気によってその日のパフォーマンスが変化するこの性格を変えてみようかと試みたが、やっぱり私は何だかんだこの性格が嫌いではなく、中止した。

 

生きている中であと何回、この清々しい晴れ間に出合えるだろうか。

 

あまりこの世には未練を残さないように生きているし、

スティーブ・ジョブズではないが「今日が人生最後の日だったら」

と考えることもある。

悔いなく人生を終えたいものだが、

どうしてももう少し晴れた日を感じたい欲求は生涯つきまとうような気がする。

 

だったらせめて、晴れた気持ちのいい日に、少し昼寝をするように永い眠りにつこう。

 

 

 

まだ学生のうちに老後の死を考えるのはあまりに気が早いような気がするが、

一つの人生の目標としては悪くない。

 

 

 

話は変わるが、晴れ間でたそがれるという行為は明らかに今を生きているわけで、だから私は幸せを感じるのではないかと思う。

 

一応今日この後の予定は考えているが、それは先ほども言った通り実質的にほぼ考えていないに等しい。

 

何よりこの時間は晴れ間を見てぼんやりとする「いま」に着目している。

 

「今を生きている」という感覚が幸せに誘うのかもしれない。

 

 

 

 

しかしできることならば、地元でこれを見たかった。

 

今は一人暮らしで東京で眺めているわけだが、

地元で見るこれは格別だ。

 

私の地元は長野県であるから、何しろまずは空気がうまい。

それに四方を囲む山は穏やかな包容力があり、

囲まれて眠りたくなってくる。

 

 

最近はなんでもそうだ。

結局何かを考えるとその終着駅には長野があって、

とにかく帰りたがっている。

そう、私は故郷に帰りたい。

【自伝】ちなみに読書の有無と幸福度の関係はガチ

皆さんは普段、本を読むだろうか。

 

このブログはどちらかと言えばSNSというより小説調な語り口なので、もしかしたら普段より読書が好きな人々が集まるのかもしれない。

 

 

 

ちなみに、私の体験で言えば、

読書の有無と幸福度に関係はガチである。

 

こう考えた経緯を詳しく説明していこう。

 

 

 

 

まず、私は普段から本は読む方で、だいたい朝、電車、寝る前などに読むことが多い。

かなりの読書家というわけではないが、自称読書家程度には好きである。

 

面白い本に出会ってそれを読んでいるときの、知的好奇心が心からふつふつと湧き上がるあの感覚が好きだ。伝わるだろうか。

何とも言えない充足感だ。

 

であるわけで、このように私は一人の読書ファンだ。

 

 

 

 

しかし、つい最近少し精神的に疲れてしまった頃、

読書をすることもやめてしまった。

 

その結果であるが、なんとなく毎日の色合いが薄れたような感覚に陥った。

 

これは私だけかもしれないが、先ほども言った読書による充足感を感じると「自分はこれでいいのだ」といった自己肯定感、自己受容にもつながる感覚が想起される。

 

「自分はこれでいい」「今日もいい日だ」と思えるわけだが、これはどうも私には、読書なしにはなかなか感じることができないらしい。

 

 

 

 

今日伝えたいのはただ、読書は素晴らしいということである。

 

今の日常にもう一つスパイスが欲しいと思ったら、ぜひ読書をしてみてほしい。

 

 

 

 

私は普段から友人にもしつこくない程度の読書布教をしているが、

そこで多く聞くのは、

「本って途中で飽きちゃうからなあ。」

という定型文である。

 

普段は「そっか、おすすめなんだけど。」とこれ以上布教したい気持ちを必死に抑えてあくまで提案の域を出ないような配慮をしているが、

 

もはやこのブログでそんなことは無用だろう。

 

 

 

 

そこそこの冊数は読んできていると自負しているが、私だって途中で飽きる。

 

飽きたらその本は「今の自分には必要のない情報だった」と割り切って本のタイトルだけ頭の片隅に置いておく。

 

また必要になったときに読めばいいではないか。

 

飽きたらさっさと次の本へ行ってもいい。

 

 

 

 

また、「何を読めばいいかわからない。」という声もある。

 

これに関しては、究極なんでもいい。

もし読書に対して現状苦手意識が強いのなら、まずは「はらぺこあおむし」を読破することから始めようではないか。

 

しっかりとした小説やビジネス書に苦手意識の強いまま挑戦しても、

 

難しい→続かない→やっぱり読書は苦手

 

余計に苦手意識を強めてしまうかもしれない。

 

 

 

 

しっかりと布教できたかはわからないが、読書をすることによって私は明らかに幸福を保っている。

 

挑戦してみる価値はあるだろう。と思う。

 

これを機に、簡単な漫画や絵本でも、一冊購入してみるのはいかがだろうか。

 

余談だが、Amazon Primeに加入している方はKindleのPrime Readingというものを使ってみることを強くお勧めしたい。便利極まりない。

【報告】しばらく音沙汰しておりました

しばらく、音沙汰しておりました。

 

言い訳は私の、いいや人間の特技とも言えるので、

今もどれを書こうか無意識の提案が続きます。

 

しかしあえて今回はその提案をはねのけて、

かっこつけずに自分と向き合います。

 

それがこのブログの趣旨の一つでもありますので。

 

 

 

 

まず初めに、私は怠惰でした。

 

確かに現在は絶賛テスト期間で、絶賛金欠で心の平穏を保ちにくく、絶賛ゲームを通して現実から離れたいような欲求が強くあります。

 

しかし結局のところそれは言い訳に過ぎず、過剰な「書かなければいけない」という義務感から逃げるために字を打つその手をを重くしました。

 

ここで言いたいのはそんな自分を律して今日から頑張りますということではなくて、

というのも私はこの方法で何度も再度挫折を繰り返しているので、

今回は少し工夫をしてみる。

 

 

 

 

自分の中にこのブログのテーマはいくつかあるが、その一つに「1000文字を、1000日」というものがある。

 

これに義務感を感じすぎてしまっている気がしたので、この認識を少しいじる。

 

 

当初は1000日連続で達成するというビジョンを持っていたが、正直現実的に不可能な日もある。

 

 

たとえば、早朝から深夜までの日帰り旅行の日など。

 

あまし旅先にノートパソコンの類は持ち込みたくないし、旅行の日はなるべくそのことだけを考え地域に没頭したいタイプであるからして、

 

そんな日に1000文字は負担が大きい。

 

 

 

 

なので、この「1000文字を、1000日」という目標をかなりの長期的な目標にすることにする。

 

忙しかったり、気が乗らなかったり、そんな日に続けてもモチベ―小の低下を招くだけだ。

 

そんな日は10文字でもいい。

ただ、継続する。

 

 

 

こうしてこの先続けてみようと思う。

 

義務感に対してかなりの嫌悪感のある私なので、そのハードルを極力下げる作戦だ。

 

 

 

 

そろそろ書いていた短編の小説も、けじめをつけたい。

 

しかし焦らず、ゆっくりやる。

趣味にせかされているようでは、精神が過労死してしまいそうになる。

 

 

 

 

人間はどうしても怠惰な側面があるし、考え方も変わる。

ましてや多感な思春期・青年期とあらばひと月別人のような価値観になることもおかしいことではない。

 

それならば日々、アップデートしていけばよい。

目標を変えることはそれほど悪いことではない。

 

 

 

しかしここ最近少し執筆をお休みしたことで、地道な継続の大切さを知ったという利点もあった。

 

毎日継続が正義という一般イメージがあるようだが、たまの休みも悪くない。

 

 

 

あしたは、何を書こうか。

【考察】定期的精神的不安定性

私は定期的に、精神状態が著しく低下する時期が来る。

 

毎日の更新が途絶えたのもそのためであるが、

 

人に言わせればこれはおそらく「病んでいる」状態と言えるだろう。

 

 

 

小学生の頃から定期的に落ち込む時期というのはたしかにあった。

 

が、大学に進学し一人暮らしを始めてから、それが重症化したようだ。

 

 

 

小学校時代は気分は落ち込むことはあれど学校には通えていたし、何より帰れば家族がいて、一緒に笑えば楽だった。

 

これが起こる頻度も、正確に覚えているわけではないがそこまで多く無かった印象だ。

 

 

これが一人暮らしを始めて、頻度の面でも重症度の面でも1ランク上に上がったような感覚である。

 

頻度は、年に平均4,5回ほど。

6月後半から7月にかけては今のところ毎年皆勤賞だ。

 

具体的にどのような状態になるか、将来の自分がこのブログを音連れた時のためにも、

なるべく具体的に書いてみようと思う。

 

まずこの状態に陥る直前の特徴は、かなり充実した生活を送ってることが多い。

今回も、早起きしたり、読書をしたり、朝ドラを楽しみにしたり、

友人に言えば、

「いつの間に精神年齢の還暦を超えたのか」

と突っ込みがありそうな、実際少しあったが、

それでも私はこういう生き方が好きで、幸せであった。

 

このブログの執筆を開始したのも、ちょうどその時期にあたる。

 

しかし暫くして、現実はそれの障壁として立ち塞がっていることを知る。

 

具体的に言えば、

 

「今日は落ち着いて過ごしたいのに学校がある」

「家族に会いたいが、会えない」(家族は長野で、私は東京である)

「送りたい生活を送るためのお金がない」(これは最近アルバイト学生からフリーランス学生に方向を変えたことが大きく、メンタルヘルスの立場では快適この上ない一方で収入面での不安定性が大きい)

 

最後のものについてもう少し説明すると、決して私は毎日外食であったり、浪費家としての人生に憧れているわけではない。

 

強いて言えば毎月一万円ほどを書籍の購入に回したいが、

決して欲張っているわけではない。

現在は生活が厳しい状況で、特に食の面での最低限の充実が欲しい一方で、それができていないという意味である。

 

一日一食は食べたいが、それも危うくなってしまっていた時期も最近だ。

ましてや「栄養に気を使った食生活」は送れるはずもなく、栄養失調との戦いである。

 

しかし今月末、実家に帰ればすべてが解決する。

こういうときばかりは、自分をいたわってやろうと思う。

 

話は少し逸れたが、こうした障壁のある現実と理想の生活のギャップが、定期的精神的不安定性のラスボスであると言えよう。

 

ギャップにやられるのは、おそらくまだ捨てきれていない完璧主義の人格が影響していると考察できる。

 

いずれにせよ、残り約20日で私は帰郷し、

すべてが解決する。

幸福の象徴たる理想郷に身を置くことができる。